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CASE 1 谷田部最高速テストコース CASE 2 ボンネビルスピードウィーク CASE 3 アウトバーン・ニュージーランド CASE 4 シルバーステイツ・クラシックチャレンジ OPTIONや東京オートサロン、D1グランプリの創始者であるDai。そんなDaiの半生は、最高速に捧げてきたと言っても過言ではない。というわけで、普通では体験できない300km/hオーバーの世界を、その歴史と共に4回に渡ってDaiに語ってもらおう。 |
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みんな、OPTION誌やビデオOPTIONの売り物だった「谷田部最高速テスト」って覚えているかな。日本は茨城県にある日本自動車研究所の通称、谷田部高速周回路でチューニングカーのマキシマムスピードに挑戦していたことだ。 チューニングカーブームの黎明期、1980年前後のことだが、チューニングがゼロヨンからトップスピードに移行してきた。腕に自信のあるチューナーや走り屋たちが、東名高速で競争をはじめたのだ。 ちょうどOPTIONの創刊(1981年6月号)間もない時期だった。 400メートル加速だけのゼロヨンからトップスピードのスリルとパワーの証明、それが最高速だ。しかし、一般道の東名高速では危険がいっぱいなのも当然だった。まだ当時のチューニングカーはフェアレディZ30(S30)やスカイラインのジャパンやDR30、セリカくらいが国産で、外車にはポルシェやパンテーラ、トランザムのチューニングカーがいた。速い外車に国産が挑戦していた時代だった。 それでも「先週、ポルシェに例のショップのZが勝った」とか「意外とパンテーラは遅い」とか、いろんなウワサが飛び交う。しかも事故ったりして危険きわまりない。で、OPTIONがちゃんとしたテストコースで計測しようと企画したわけだ。 1981年10月号。はじめてのテストに参加したのは13台。国産、外車のチューニングカーと新車スポーツカー合わせての最高速だ。第1回の結果はトランザムの246km/h。30Z(S30)はノンターボで257km/hが驚異的だった。ちなみにオレの130Z(S130)は同じL型なのにターボで247km/h。当時はまだターボチューンは始まったばかりで、NAのほうがレベルは上だった。 ドライバーにはレーサーの高橋国光さんや三菱のテストドライバー望月修さんをお願いした。チューニングカーの信頼性がまだ高くなく、なにか起こったら、普通のドライバーじゃ対処できないからだ。 最初はカリカリにチューンしても250〜260km/hレベルだ。 それから4ヶ月後、パンテーラが300km/hを記録して、大騒ぎになった。ここから、国産チューニングに気合いが入ることになるのだが、さしものレーサーもヤバイと思ったのかテストを辞退することになる。 素人のオレが最高速をやりだしたのはこんな事情からだ。 ホントに当時の最高速は危なかった。250〜260km/hレベルでも直線さえ真っ直ぐ走らない。いつタイヤがパンクするかエンジンがブローするかわからない。いつも事故死する覚悟でテストしていた「スピードが出ないのはDaiちゃんが恐くてアクセル踏んでくれないからだ」なんていわれたこともある。オレはいつも必死で踏んだけどね。 思い出に残るのは、やはり初の国産300km/hをマークしたHKSセリカM300だ。それでも初の最高速テストから2年後の1983年12月だった。 それから数えきれないくらいのチューニングカーのステアリングを握ってきたが、谷田部ではバンク進入が300km/h、出口で320km/h、ストレート終わりで340km/hくらいで限界がみえてきた。その後は0〜300km/h加速テストに切り替えたけど、ある日、突然の終焉を迎えた。 オレの会社、ディーズ・クラブの副社長兼OPTION2編集長だったマサ斉藤が谷田部で事故死したからだ。こんな事態になったら、もうコースは借りられない。最高速テストの終わりだ…。 しかし、このテストが日本のチューニングレベルを大きく向上させたのは間違いない。オレの挑戦や斉藤の死が今の日本のアフターマーケット文化を創ったと自負している。 次回は谷田部その後の話をしよう。 |
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1981年、初めての谷田部最高速テストで、国産勢トップの257.60km/hをマークした久保S30。(OPTION・81年10月号より) |
第1回目の最高速テストで最も速かったのが、264.71km/hを記録したトラストの総帥、大川さんのトランザムだ。パンテーラGTSも241.6km/hを記録。(OPTION・81年10月号より) |
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国産初の300km/hをマークしたHKSセリカM300。300km/hオーバーの壁は厚く、第1回目の谷田部最高速テストから2年後のことだった。 |
22年前のDai。初の最高速テストを終えた後「今回は風が強くヨーイングが発生し、マシンによっては直線で5mくらい吹き飛ばされ、計測ラインを踏むのも困難だった。その瞬間は身の毛がよだつ感じだ」と、最高速テストの恐ろしさを語っている。 | |||||